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05/13
Sat
カッコウがやってきた
かっこうの初音こぼれし朝ごはん
昨朝、裏のケヤキにカッコウがやってきました。昨年より一週間ほど早い来訪です。
ケヤキの新緑がいい感じで繁ったなと思っていたところですからさすがです。
一体どんな風に判断してどこからやってくるのでしょうか、不思議です。一羽だけだから、毎年同じ鳥がやってくるのでしょうか。
ウグイスと違って短い鳴き声だから初音でもぎこちなさはありません。
かっこうを辞典で引くと、カンコドリ、ヨブコドリの異称が出てきますが、わが家で耳にする鳴き声のイメージとはちょっと違うものですね。
このカッコウの鳴き声が朝に夕に響き、新緑の深まりとともに豊かさを感じさせてくれるのです。
ヨブコドリ「喚子鳥」といえば、古今伝授の秘伝の「三鳥」のひとつです。
吉田兼好も徒然草の中で「喚子鳥は春のものとばかり言ひて、いかなる鳥とも定かに記せるものなし・・・・」と書いていますが、さまざまな小鳥の総称だという説もあり、本当のところはどうなのでしょうか。
をちこちのたつきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな 猿丸
花すすき呼子鳥にもあらねども昔恋しきねをぞなきぬる 伊勢
同じ声でも音でも山奥で一人さびしく聴くのと、里で大勢の人と聴くのでは、まったく違うものになりますね。同じ曲でもそのときの心境で忘れがたい思い出になったり、二度と聴きたくないものになったり。
ただそのままをそのままとして聴く、受け入れることができるような心を日々つくっていきたいものです。
カッコウはほかの鳥の巣に卵を産んで育ててもらうんですよね。私もここの部分まだまだわからない部分が多いです。このあたりが古今伝授、秘伝になるのでしょうか。
*貌鳥(かほどり)の間無く数(しば)鳴く春の野の草根の繁き恋もするかも(万葉集)
*大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる(万葉集)
*をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこ鳥哉(古今集)
*み山木に夜は来て鳴く箱鳥の明けば帰らむことをこそ思へ(古今集)
また、ヨビコドリ(ヨブコドリ)と呼ばれるのは、何かを呼び立てているようだからとのことです。
郭公に纏(まつ)わる昔語りも、この鳥が「冥土の鳥」といわれるぐらい、哀愁を催すものばかりです。郭公の鳴き声を聞いた昔の人は、次のような物語りを残しています。
「母一人、子一人、夕べの山路を物淋しく通っていると、“早来・早来”とこの鳥が鳴いた。そうして、心付いてみると、背の幼な児は死んでいた。」というのです。現在では、カッコウとばかり聞えるが、昔の人には、ハヤコ・ハヤコというふうに聞えたからでしよう。
郭公の詩を二篇。お好みのままに・・・。
「郭公に」 矢野峰人
血を吐く鳥と人のいふ
鳥よなれは今日もまた
血をば吐きつつ啼けるにや。
血をはくものは汝(な)のみかは
いとしの吾子(あこ)も血を吐きて
五月(さつき)の闇に消えゆきぬ
血をば吐きつつ消えゆくは
あに汝のみかはいとし子よ
汝が父母も妹も
目にこそ見えぬあけくれに
汝を偲びつつ血を吐ける
「しなのしろてふ」 田中冬
―檜峠―
さよなら さよなら
私は何べんもふりかへった
焼ヶ岳は晴れた空に一筋の噴煙をまっすぐたててゐた
郭公がしきりにないた 虎杖(いたどり)の花がさいてゐた
渓の一ところが翳った
うすい白い雲が通ってゐるのだ
しなのしろてふがとんで来た
光線がつよいので それは白とも橙黄色ともみえた
麦稈帽子をとって涼を入れると 頭髪に温泉の香りが未だのこってゐた
ああ あの温泉からは乗鞍の雪田が仰がれた
気温のひどく降下する夜 宿りの人のすさびにともした青い走馬灯に 山気は寥々と迫った―
さよなら さよなら
私はもう一度呼んだ
焼ヶ岳の中腹にはいつのまにか淡い白い雲の―流れが浮かんでゐた
芭蕉の句に「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」というのがあります。
山でよく声は聞きますが、姿を見た事がありません。声がいいから姿はそうでもないのでしょうか。
本当にさびしい歌が多いんですよね。人を呼んでいるような・・・。
「カッコウ」の鳴き声は、最初から思って聴いているけれど、まったく無意識に初めて聴いたら、違う言葉の表現をするかもしれませんね。国によって鳥の鳴き声の表現が違うように。
きっと人が知らない風の音や香り、感じていらっしゃるのですね。
今更ながら芭蕉のこと、すごいなあと感じる今日このごろです。
この季節の大学のキャンパスで毎日のようにカッコウの声を聞いていました。懐かしいな ^^
山でひとり聞くホトトギスやカッコウの声など、声の後の閑けさがなお深まるような気がします。
一鳥啼山更幽
(いっちょう鳴いて 山さらにしづかなり)
オーストリアの鳥の声に耳を傾けてみます。行ってまいります。刈谷の杜若に、よろしくお伝えくださいね。
オーストリア遠征うらやましいです。モーツアルトにザッハトルテ・・・・楽しみですね。刈谷にはお誘いしたかったのですが、こちらは残念。
気をつけていってらっしゃいませ!!
もうすぐカキツバタですね

よぶこどり、意味深ですよね〜
むろぴいさまのコメントにもハッとします。
いろいろと、人に言えない物語があるのでしょうね。。。(しみじみ)
ヨブコドリ・・・まだまだ消化不良(?)です。考え始めると、なぞにはまります。
コメント
この記事、とても素晴らしいと思いました。「喚子鳥(よぶこどり)」は「かっこう」のことだと初めて知りました。
『日本の「ち・から」』の古今伝授のこのところは読みきれていないのですが、三鳥のひとつのこの言葉、他人に子供を生ませるという意味を込めているのかな?と思ってしまいました。
カッコウはほかの鳥の巣に卵を産んで育ててもらうんですよね。私もここの部分まだまだわからない部分が多いです。このあたりが古今伝授、秘伝になるのでしょうか。
*貌鳥(かほどり)の間無く数(しば)鳴く春の野の草根の繁き恋もするかも(万葉集)
*大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる(万葉集)
*をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこ鳥哉(古今集)
*み山木に夜は来て鳴く箱鳥の明けば帰らむことをこそ思へ(古今集)
また、ヨビコドリ(ヨブコドリ)と呼ばれるのは、何かを呼び立てているようだからとのことです。
郭公に纏(まつ)わる昔語りも、この鳥が「冥土の鳥」といわれるぐらい、哀愁を催すものばかりです。郭公の鳴き声を聞いた昔の人は、次のような物語りを残しています。
「母一人、子一人、夕べの山路を物淋しく通っていると、“早来・早来”とこの鳥が鳴いた。そうして、心付いてみると、背の幼な児は死んでいた。」というのです。現在では、カッコウとばかり聞えるが、昔の人には、ハヤコ・ハヤコというふうに聞えたからでしよう。
郭公の詩を二篇。お好みのままに・・・。
「郭公に」 矢野峰人
血を吐く鳥と人のいふ
鳥よなれは今日もまた
血をば吐きつつ啼けるにや。
血をはくものは汝(な)のみかは
いとしの吾子(あこ)も血を吐きて
五月(さつき)の闇に消えゆきぬ
血をば吐きつつ消えゆくは
あに汝のみかはいとし子よ
汝が父母も妹も
目にこそ見えぬあけくれに
汝を偲びつつ血を吐ける
「しなのしろてふ」 田中冬
―檜峠―
さよなら さよなら
私は何べんもふりかへった
焼ヶ岳は晴れた空に一筋の噴煙をまっすぐたててゐた
郭公がしきりにないた 虎杖(いたどり)の花がさいてゐた
渓の一ところが翳った
うすい白い雲が通ってゐるのだ
しなのしろてふがとんで来た
光線がつよいので それは白とも橙黄色ともみえた
麦稈帽子をとって涼を入れると 頭髪に温泉の香りが未だのこってゐた
ああ あの温泉からは乗鞍の雪田が仰がれた
気温のひどく降下する夜 宿りの人のすさびにともした青い走馬灯に 山気は寥々と迫った―
さよなら さよなら
私はもう一度呼んだ
焼ヶ岳の中腹にはいつのまにか淡い白い雲の―流れが浮かんでゐた
芭蕉の句に「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」というのがあります。
山でよく声は聞きますが、姿を見た事がありません。声がいいから姿はそうでもないのでしょうか。
本当にさびしい歌が多いんですよね。人を呼んでいるような・・・。
「カッコウ」の鳴き声は、最初から思って聴いているけれど、まったく無意識に初めて聴いたら、違う言葉の表現をするかもしれませんね。国によって鳥の鳴き声の表現が違うように。
きっと人が知らない風の音や香り、感じていらっしゃるのですね。
今更ながら芭蕉のこと、すごいなあと感じる今日このごろです。
この季節の大学のキャンパスで毎日のようにカッコウの声を聞いていました。懐かしいな ^^
山でひとり聞くホトトギスやカッコウの声など、声の後の閑けさがなお深まるような気がします。
一鳥啼山更幽
(いっちょう鳴いて 山さらにしづかなり)
オーストリアの鳥の声に耳を傾けてみます。行ってまいります。刈谷の杜若に、よろしくお伝えくださいね。
オーストリア遠征うらやましいです。モーツアルトにザッハトルテ・・・・楽しみですね。刈谷にはお誘いしたかったのですが、こちらは残念。
気をつけていってらっしゃいませ!!
もうすぐカキツバタですね

よぶこどり、意味深ですよね〜
むろぴいさまのコメントにもハッとします。
いろいろと、人に言えない物語があるのでしょうね。。。(しみじみ)
ヨブコドリ・・・まだまだ消化不良(?)です。考え始めると、なぞにはまります。
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この記事、とても素晴らしいと思いました。「喚子鳥(よぶこどり)」は「かっこう」のことだと初めて知りました。
『日本の「ち・から」』の古今伝授のこのところは読みきれていないのですが、三鳥のひとつのこの言葉、他人に子供を生ませるという意味を込めているのかな?と思ってしまいました。